理事長コラム
門司誠一の思いをつづります。
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2025.12.12

昔の人が残した言葉には、長い年月の中で磨かれてきた深い知恵があります。「気は長く 心は丸く 腹立てず 口つつしめば 命長けれ」この一句もそのひとつです。短い言葉ではありますが、その中には、人としての振る舞い方、そして穏やかに生きるための秘訣が丁寧に込められています。
まず、「気は長く」。
焦らず、急がず、人と向き合う。福祉の現場では、まさにこの姿勢が大切です。できることが昨日より少しゆっくりになっても、それは人としての自然な歩みです。寄り添い、待つことも支援のひとつです。次に「心は丸く」。
角の立った言葉や態度は相手を遠ざけます。利用者ご家族、地域、職員同士、私たちは多くの関係の中で働いています。相手の背景や気持ちに思いを巡らせ、丸い心で接することが、安心と信頼を育てます。続く「腹立てず」。
思い通りにいかない出来事は誰にも訪れます。けれど、怒りは自分の心の平和を奪い、周囲にも波を広げます。深呼吸一つで変わる空気があることを、私たちは経験から知っています。そして「口つつしめば」。
言葉は目に見えませんが、人を傷つけることも、励ますこともできます。何より、一度発した言葉は取り消せません。だからこそ、言葉には思いやりを添えたいものです。最後にある「命長けれ」。
これは単に寿命が延びるという意味だけではなく、穏やかで満ち足りた人生が送れるという願いの表現と受け取っています。現代社会はスピードを求め、効率を重視します。しかし、人との関わりには、効率では測れない価値があります。だからこそ、この古い教えが今、私たちに静かに問いかけているのかもしれません。
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2025.12.10
本日は、10年・20年という節目を迎えられた皆さまに、心からの敬意と感謝を申し上げます。長い年月、利用者様一人ひとりに寄り添い、日々の支援を続けてこられたその姿勢は、まさに本法人の歩みそのものです。
福祉の現場は、決して華やかな仕事ではありません。時には報われないと感じることや、悩み、迷い、疲れを覚える日もあったかもしれません。しかし皆さまは、その日々の小さな積み重ねを怠ることなく、一歩ずつ、確実に利用者様の生活を支え続けてくださいました。
10年は信念が形になる時間、そして20年は仕事が人生の一部となる年月です。その重みは、数字では測れません。今日表彰された皆さまは、経験という財産とともに、新たな仲間の手本となり、職場の文化を育ててくださっています。
私たちの法人は、「人」で成り立っています。建物より設備より、何より代えがたいのは、皆さまの温かい心と確かな実践です。利用者様の笑顔や安心は、皆さまの努力の証として確かにここにあります。
どうか今日の表彰を、通過点として、そして誇りとして胸に刻んでください。これまで支えてくださったご家族の皆さまにも、併せて深く感謝申し上げます。これからも、共に歩み、笑い、助け合いながら、私たちの使命を育ててまいりましょう。
本当にありがとうございました。そして、心からおめでとうございます。

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2025.12.08
このところ、熊の出没が全国的に話題になっています。ニュースでは、住宅街に現れたり、学校の敷地に侵入したりという報道が続いています。秋の山に食べ物が少ないことが原因だとも言われていますが、何より驚くのは、その「近さ」です。
「まさかこんな所に熊が出るなんて」――これは被害に遭った地域の方々の共通の言葉でしょう。私たちが暮らす九州では、かつてから「熊はいない」と言われてきました。実際、ツキノワグマの生息地は本州以北で、九州では絶滅したとされています。だからこそ、「熊対策」という言葉はどこか他人事のように感じてしまいがちです。
しかし、この“他人事”という感覚こそが、危機管理の落とし穴なのかもしれません。福祉施設には、常に「守るべき人」がいます。高齢者、障がいのある方、子どもたち――自ら素早く避難することが難しい利用者の命を預かる以上、想定外を想定する姿勢が欠かせません。熊ではなくとも、野犬、ハチ、ヘビ、不審者、あるいは気象災害。自然も社会も、思いがけない形で牙をむくことがあります。
危機管理というと、つい「起きてから対応する」イメージを持ちがちですが、本当の備えは「起きる前の想像力」にあります。
“熊はいないはずの九州”であっても、「もし、そんなことが起きたら」を考える――それが、地域の安全と福祉を支える私たちの責任だと思います。寒さが増すこれからの季節、熊ではなくても、私たちの周囲にはさまざまなリスクが潜んでいます。職員一人ひとりが「想像力の防災」を意識していきたいと思います。
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2025.11.18
かつては近所へ出るだけでも上着を着用し、姿勢を正していた時代がありました。身だしなみは、自分を律するための小さな“けじめ”でもあり、同時に地域社会への礼儀でもありました。その行為の中には、「節度をもって暮らす」という生活のリズムが確かに息づいていました。
いま、私たちの暮らしは大きく様変わりしています。普段着のまま外へ出ることが当たり前となり、生活の延長線がそのまま公共空間へ流れ込むようになりました。気軽さは便利さをもたらしますが、一方で“生活感があまりに露骨に外へあふれ出る”光景も増えています。人前であっても平気でスマホに没頭し、道端での飲食や迷惑行為が話題になることもあるなど、節度の輪郭が薄れてきたように見えます。
その背景には、「自分が良ければそれでいい」という空気の広がりがあります。自由や個性の尊重は歓迎すべき流れですが、行き過ぎれば社会全体のけじめが曖昧になります。本来、公共の場とは多くの人が共有する“中間領域”であり、最低限の節度があるからこそ心地よく成り立つ空間です。しかし、個の自由が強調されすぎると、その中間領域の規律が崩れ、互いが気を配る文化が後退してしまいます。
服装の変化は、単なるファッションの問題ではありません。それは社会観の変化そのものであり、「どこまでが自分の領域で、どこからが他者との共有空間なのか」という感覚を表しています。普段着で外出する自由そのものは否定されるべきではありませんが、そこに節度や気遣いが伴うとき、社会はより心地よいものになります。
自由と節度。そのバランスを失わずに暮らせるかどうか――現代の私たちが立っているのは、ちょうどその境界線の上なのかもしれません。
