『遺教経(ゆいきょうぎょう)』は、お釈迦様が八十歳を迎え、入滅を前にして最後に弟子たちへ説かれた教え、いわば御遺言ともいうべき経典であります。二月十五日、その生涯を終えられる直前に示されたこの教えには、人として、また集団の中で生きる者としての在り方が簡潔に、そして深く説かれています。
遺教経に「知足之人は貧しといえども富めり」とあります。足るを知る者は、たとえ物質的に恵まれない状況にあっても、心は豊かである――この言葉には、人としての生き方の本質が、簡潔に、そして深く示されております。
現代は、豊かさと利便性を追い求める時代であります。私たちの生活は大きく向上いたしましたが、その一方で、「まだ足りない」と感じる思いに心がとらわれる場面も少なくありません。外側の充実に比して、内面の充足が見えにくくなっているとも言えるのではないでしょうか。
こうした時代にあって、「知足」の教えは、私たちに大切な視点を与えてくれます。足るを知るとは、決して現状に甘んじることではなく、今ある環境やご縁の尊さに気づき、その中で誠実に務めを果たしていく姿勢であります。
社会福祉の現場においても、この心の在り方は極めて重要であります。制度や設備の充実はもちろん欠かせませんが、それ以上に、利用者お一人おひとりに対する敬意と、寄り添う気持ちが何より大切であります。限られた条件の中であっても、心を尽くした関わりは、確かな信頼として積み重なっていくものと考えます。「貧にして富む」とは、まさにこのような内面的な豊かさを指しているのでしょう。目に見える豊かさだけでなく、心の充実をいかに育んでいくか、その問いを、私たちは常に大切にしたいものです。
日々の業務の中でこそ、「足るを知る心」に立ち返りながら、一つひとつの実践を丁寧に積み重ねていく。その姿勢が、組織としての信頼を築き、より良い福祉の実現につながるものと信じております。『知足之人は貧しといえども富めり』という言葉を胸に、これからも心の豊かさを大切にした福祉の実践に努めてまいりたいと存じます。


